中野武蔵野ホール:最後のおぼえがき

先日ラピュタ阿佐ヶ谷で もらってきたフリーペーパー
「たまえいが通信」で
さよなら中野武蔵野ホール という 特集があった

HPを見たら 会報(2号目の6月号)がまるまる掲載されているけど
PDFファイルなので わたしのパソコンからは ちょっと見にくい‥
いくつか 印象的な個所を 書き写しておく
http://www.tamaeiga.org/

中野武蔵野ホール職員 山本さんのメッセージ
 中野武蔵野ホールで、何度も見たくなるドキドキする映画を発見できたことを誇りに思います
 本当に大好きで心の拠り所でした わたしの中で、永遠にぴかぴか輝く、
 一等大切な映画館であります

矢崎仁司監督 「映画館の死」
オートバイで疾走する恋人たちがいた。風を感じて運転する少年。そんな彼にしがみつくように乗っている少女。突然、少女が微笑み、両手で少年に目隠しをする‥と、スクリーンが滲んだ。入り口付近に立っていた私は頭上の映写室を見上げた。映写室の窓もにじんでいた。編集中、わたしは泣くことがあるが、映画が完成して観客のいる暗闇に曝すと、自分の映画で泣いたことはなかった/あの夜は特別だった。中野武蔵野ホールの暗闇で「三月のライオン」という映画を観た。あと一日でこの映画館が閉館してしまうという夜、私は自分の映画の観客になれた。子どもの頃から、映画はうしろめたいものだった。だから、人を集めて電気を消して観る映画館が好きだった。あの暗闇とうしろめたさ。今夜で中野武蔵野ホールの暗闇に呼吸するアイスやハルオともお別れ。主演の趙方豪が死んで、去年七回忌を迎えた。大切な人とのお別れには慣れたつもりだったが、場所の死にはどう向き合ったらいいか、解からないままでいる。/でも、あの夜ひとつだけわかったことがある。映画館が死ぬとき映画も一緒に死ぬということだ。映画はまたほかの暗闇で上映されるけど、同じ題名の映画でも映画館の数だけまったく別の映画が存在しているんだと思う。だから、中野武蔵野ホールの死は、あの暗闇に映し出せれた全ての映画の死だと思った。サヨナラ、中野武蔵野ホールの映画たち。サヨナラ、中野武蔵野ホールの暗闇。

中野武蔵野ホール初代支配人 細谷隆広氏のインタビュー返答 

「監督と劇場が一緒になって宣伝をしていた。配給・宣伝会社が少ない(大手しかない)時代なので、インディーズ映画は自分たちで広めていくしかなかった」 (86〜90年頃)

「毎月第三土曜の夜、無審査で持ち込みの自主映画をかける無法地帯。上映終了後は電車も無くなるので、近くの居酒屋で朝まで飲むのがパターンだった。皆映画より飲み会を楽しみに来てたよ」 (92年ごろ)
「派閥が出来たりして面白くなくなったから、引いちゃったんだよね」
「かんけーねーよ」
「映画はイベントだ」


長くなっておいて ナンなのですが 興味ある人は名画座などで もらってきたほうがよいです
この「たまえいが通信」、かなり ありがたい品です (合掌)