つれづれノート

妹から借りた銀色夏生の日記エッセイ、
つれづれノート(1〜14巻:完結) が
かなりおもしろかった


銀色夏生ってファンシーな人かと思って
全然読まないできたけど
風変わりで甘えない、ストイックな人だった
ひらがなで、語る哲学、
それを生活で実践しているのがすごい‥ 
(そんな人が自分の快適を追求していく ‥奮闘記?)


わたしは今まで、読まずぎらいをしてきたなぁ‥
(でも、今さっき はまぞうでこのシリーズの表紙を見たら。
(妹から借りた本にはカバーがかかっていたので、ハジメテ表紙見た)
 苦手なファンシーを感じるものがいくつかあり、読まずぎらいも無理ないかも。と思った 
 この表紙‥(もったいない)。でもこのバランスが、この人の味)


一気に読むのがもったないので、自分にブレーキをかけて
2ヶ月以上かけて ちびちび読んできた (すてきな時間だった)
妹に本を返すと さびしくなってしまうので
面白かった箇所をのこしておこうと思います


(以下 自分メモ)

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つれづれノート (角川文庫)

つれづれノート (角川文庫)

人は時々、なにかをこわしたいという欲求にかられることがある。(と、思う。)何かをむちゃくちゃにしたいという、素晴らしい気分だ。愛するという行為のなかには、そういう一面もある気がする。
私が小学校の一年生くらいの頃、テレビでかわいらしい赤ちゃんのアップを見て、あまりにもかわいくて、めちゃくちゃにしたいと思ったものだが、あの気持ちだ。書いてるうちに、思い出してきた。思い出すだけで胸がいっぱいになる。ワクワクワクワクする。

私はよく、気が合わないだろうと思う人のそばへことさらに近づくことがある。さけて通ることのできる不快感を、あえて受けるために進むことがある。あれはなぜだろう。好奇心だろうか。それとも違うようだ。行っても楽しくないとわかっていながら行くには、何にひかれているのだろう。さて、その中の一人の、胸が悪くなるようなつまらない話を聞きながら、私は何かこの人の中にそれでも何かがあるかもしれないと思って、じっと目を見て真面目にうなづいていた。でも、最後まで何も見えなかった。


つれづれノート〈2〉 (角川文庫)

つれづれノート〈2〉 (角川文庫)

私は、どんなこともどんなものも存在するという意味においてはただ自然で同等だと思います。そこに感情がはいると、いろんな価値がでてくるのでしょうけれど、とりあえずはまずはフラットな立場で接するべきではないかと思います。よく知らない同志のはなし。

恋愛や結婚の時もそうだったけど、子育てに関しても、人から聞いて大変だということが、実際自分が経験してみると、全然大変じゃないことがある。経験者の話や忠告というものは自分が未経験だとついついそれがすべての人にあてはまるものだとして聞いて、おそれたりするものだけど、そんなことはやはりなくて、それはその人の感じたことであって、自分は自分のやりかたでやっていくのだし、そうできるのだから、人の話を聞いてちょっと暗くなったとしても、自分の今までのやりかた、今までの物事の対処のしかたでこれから未知のものも同じようにやれるのだから、「今まではそれでよかったけどこれからはそんなふうではダメだ」とか「これからが大変」などという人の意見は聞きたくなければ聞かなくていいと私は思います。これからは今までみたいだよと、私なら言います。それは、力と希望をこめてです。


あつかったので、ずっと家にいた。本当は、買い物とか、ゆうびん局とか、いろいろと小さい用事はあるのだけど、めんどくさかった。それで、この家は、今、漂流している舟だと思うことにした。波にゆられてあてもなくさまよう舟。外には一歩もでられない。わずかな食料だけで、うえをしのごう。じゃがいも、にんじん、冷凍の焼きとりだ。そう考えると、家にいるのもたのしい。そう‥‥‥ここは舟‥‥‥

このあいだの夜中、泣いて、ねむらないあーぼうにムッとして、おこって逃げた。その時に、へぇーと思ったのだけど、小さな子どもというのは、逃げこむのはいつもおかあさん(あるいはいつもそばにいる人)の腕の中だ。だから、私がおこると、泣いて、私へ、逃げてくるのだ。おこってる私から逃げて、とびこむのも私。妙に、不思議な現象だった。私以外の人やものから逃げて、私へとくるのは、一直線だからいいけど、私がおこって、拒絶して、私へ逃げたい時は、子どもも、かわいそうだ。行きたいのにおこられるし、おこられてもとびこみたいしで、わんわん泣いて、じだんだをふんでいる。ここらへんが、親子の、なんというか、大事な特徴だなと思った。(こういうことをむーちゃんに言うと 、たぶん「(子どもって)ばかだねぇ」というはず。)

思ったこと。人の内面の世界と外側の世界は対応しているのだろう。私の心が私をほっとさせないものならば、私も世の中をほっとしないものと見るだろう。私の心が私を苦しくさせたり、きびしい目でしかみないとしたら、世間も私にとって苦しい存在になるだろう。自分を不当にいじめる人は、世間からもいじめられるだろう。内面と外側のさかい目についているたくさんの窓。窓をあければあけるほど、いろいろ見えるし、風も吹きこんで、やることと、興味がますだろう。(そのかわりそうじもふえるだろう)


私は、死や離婚が不幸、誕生や結婚がめでたく幸せというふうには思ってないので、離婚と聞いても、そう、と思うだけで、結婚と聞いても、ふーんとしか思えないんだけど、身近な人の死を悲しむ人には、真面目に相対してしまう。漠とした悲しみがただよっているから。


英会話スクールはやっぱりやめた。どう考えても、日本語でさえ知らない人と話すのが嫌いな私が、英語で知らない人と会話をするのはいやでたまらない。ヒヤリングだけ映画なんかで慣れるようにして、あとは旅行用の短い言い方だけわかればいいやと思う。そういえば、英語を知らないと会話しなくてよくてらくでいいなと、旅行中、思ったんだった。
(英語を習おうという気持ちは、波のようによせてはひいていき、またよせる)

私は思うんだけど、人はそのひとらしいことをしているなら、それは大体いいんじゃないかと思う。それが、気どったことでも、ケチなことでも、スケベなことでも、傲慢なことでも、他人が眉をしかめるようなことでも、それがその人にとって似つかわしいことなら、それほど悪くないと思う。悪いのは、その人が自分でも、自分らしくないと思うことをしている時。
本人も居心地が悪いし、非生産的でもあるだろう。


バラ色の雲―つれづれノート〈6〉 (角川文庫)

バラ色の雲―つれづれノート〈6〉 (角川文庫)

熊本の友だちツーへでんわして、「むーちゃんに好きな人ができたので、何も聞かずに最短キョリでりこんしてあげた」と言ったら、「むーちゃんは、世界一のしあわせ者だね」と言う。そして、私のことを「強いね」と言うので、「他のことだったら話し合いの余地があったかもしれないけど、恋だけはダメだと思う」と言った。
(さほど驚かず、ふーん‥‥と。こんなツーが好き。
そういえばやよいちゃんの第一声は、「やるねーむーちゃん」だった。こんなやよいちゃんが好き)

今日は、あわや遭難かと思った。
(略)
あまりの疲労とショックで落ち着かないまま、夕方みんなで居酒屋へ行く。生ビールを飲みながら今日の感想を言い合う。
セッセが、
「君たちは、あんな非常時に、木の実をひろったり、わさびをとったりして、信じられない」と言う。
そう、私は木の実、しげちゃんはわさびをとっていた。それから、また山へ登ろうということになった。ちょっとした危機を乗りこえた私たちは、山のとりこになっていた。

どうやらあーぼうは、うんこを食べたらしい。
「こないだうんこを食べたよ」と言うので、「どうやって」と聞いたら、
「うんこをした時、ふいたら手についたの」
「どれくらい」
「これくらい」
「どんな色だった?」
「くろ」
「それで?」
「食べたの。アムーって」
「どんな味だった?」
あじはしなかったけど、おいしかったよ」
「またたべるの?」
「うん」
「もうたべないでね」
「うんうん」という感じ。
私はしつこく何度もこのことについて聞いたのだった。何度聞いてもまだ聞きたりない。

(最後の↑は、うちの妹も絶賛していた箇所)


きのう思ったのだけど、何を考えていて思ったのか忘れたけど、恋心ってやはり育てるものだな‥と思う。花の種みたいに、水をあげたり日光をあげたりして。
そして、人によって育て方の癖みたいなのがあって、どんどん成長させる人もいれば、まったく育てようという意思を感じさせない人もいる。
私はどうかなと考えてみたら、私の場合、すごく育てたり、殺そうとしたりを交互に繰り返す癖があるとみた。

どうして友だちに話すと、気分の悪いのが直るんだろう。すごくたすかった。
私も、誰か人に対してそういう存在であったらいいなと思った。結局、幸せって、不幸がおこらないってことじゃなくて、それを晴らせるかどうかだと思う。


散歩とおやつ―つれづれノート〈8〉 (角川文庫)

散歩とおやつ―つれづれノート〈8〉 (角川文庫)

たとえば、50年前と今では、世の中はずいぶん変わっただろうと思う。
私がこれから生きるのが、長くて30年とか40年とかだとして、その間にこの世の中がどんなふうに変わっていくのかが楽しみ。すごく変わるのだろうか‥。
変わる世の中を見ていたい。

 このあたりでフと
 わたし:ねぇ、この‘イカちゃん’。イカちゃんとはずっと仲良くやっていけるの?
 妹:んー。なんで?
 わたし:だって、イカだなんて。好きな人をイカって呼ぶかなぁ。ずっとイカって言いつづけるの?
 妹:言っちゃっていいのかなぁ
 わたし:いいよ。心の準備もほしいし
 妹:んー。言わない。でもね、これからドロドロしていくよ
 わたし:ドロドロ?‥こわいなぁ
 妹:こわいよ
 わたし:えー。なんでドロドロしちゃうの?
 妹:言えないよ。読めばわかるよ
 わたし:ひゃー!気になる。気になるよ
 妹:ふ。そうねえ。すごいこと教えてあげようか‥
   ‥しげちゃんね、ゲーリーになるんだよ
 わたし:げ。ゲーリー
 妹:セッセもサムになるんだよ。ふふふ
 わたし:えー。‥なんで?読めばわかる?
 妹:ふふふ
 わたし:えー・・・


空の遠くに―つれづれノート〈9〉 (角川文庫)

空の遠くに―つれづれノート〈9〉 (角川文庫)

私とセッセが、今回、気づいたこと。かんちゃんとしげちゃんはとてもよく似ている。
おてんば、おっちょこちょい、マイペース、声が大きい、落ち着きがない、ふざけている、きれい好きでない、おせっかい、人をおこらせるのがうまい、我が強く、人には淡白、などいろいろ。セッセと二人でしみじみとうなずきあった。

(文章が、でなく この事実がたいへんおもしろいと思いました)


島、登場。―つれづれノート〈10〉 (角川文庫)

島、登場。―つれづれノート〈10〉 (角川文庫)

やっぱり、子どもの時からお金のことは考えさせないとと、きのう読んだ本の影響もあり、かんちゃんに声をかけてみた。
「かんちゃん、いいことおしえてあげるからこっちへおいで」
かんちゃんやってくる。
「かんちゃんは、大きくなったら、なにになりたい?」
「おじさん」
なんか、ここで、私の気分はへたってしまい、やっぱりまだ小さいからなと思い、やめた。

(かんちゃんは、小学校に入学したばかりの女の子)

セッセによると、かんちゃんのケチぶりはセッセとそっくりなので、とてもよくわかるらしい。いちばんすきな食べ物を最後に大事にすこしずつ食べるところや、薬味をたくさんとりすぎるところなど、なにもかも同じと言う。かんちゃんが理解できない行動をとった時は、ケチという観点から見るとすぐわかるだろうと、アドバイスされる。深くうなずく私。

そのアンパンは、ものすごくおいしかった。今まで一番。パン生地が違う。味わい深い。あんこも、つぶあんで、おいしい。あまりにもおいしかったので、何もしゃべらずに食べ終えた。食べ終えて、実は今食べたアンパンが、すごくおいしかったと言ったら、セッセがどおりで何もしゃべらなかったと言い、Uターンして、もっと買うためにひっかえすことになった。
(略)
今日は、アンパンがよかった日だった。あんなアンパン。できたてだし、もう一生に二度と食べられないかもしれないと思う。食べものって、一期一会だ。おいしい味は、同じ店でも、その時の状況や自分の体調が違ったりして、なかなかふたたび味わえないものだ。


私は世の中でおこってる他の人の事故や事件や病気に興味がない。かわいそうと思わない。それは、人ごとだと思ってないから。いつでも私もそうなるかもと思っているので、気をひきしめるだけ。それぞれの人の人生はそれぞれに違う。パッと見だけではわからない。テレビのニュースだけ見ても判断できない。それよりも重大なのは自分の人生だと思う。いつも真剣に生きてないと思う。また、人の不幸を悲しむ人は、人の不幸をよろこぶ人だとも思う。ものごとは、ただそのものとして受けとめなくてはいけないと思う。それには強い心がないと。むなしさやあきらめものみこんでただ受けとめなくては。


ここはますますゲイリー色が濃くなっていて、もはやうっかり近づくと大変な感じ。暗黒のゲイリーワールドは渦をまきながら拡大している。
ついに私もここを去る日が来たようだ。
新しい家ができたら、ゲイリーん家にはもう一生来ないかも。

(↑ この文章が、全巻とおして一番笑ったところ)

人のエッセイとか読んでいて思うのは、誰からもつっこまれないような、謙虚で物分りのいい文章ほどつまらないものはないってこと。エッセイは、やぶれ饅頭のように、ところどころあんこが飛び出たようなものであってほしい。その人の、真の声を、ライブ感のあるものを読みたい。たとえ静かな印象のものでも。だから、いいこと言ってるのに、気をつかって言い訳ばっかりしているものとか、保険かけてるものとか読むと、いらいらする。いいから、わかってるから、まわりに対するフォローに文章をさくより、あなたの率直な意見の続きをもっと聞かせて、と思う。わかってる人はわかってるんだから、わからない人たちへの無駄な説明に時間をとられるより、わかってる人にむけて、ついてきてる人だけついてこさせて、うしろをふりむかずに、どんどん進んでほしいと思う。あなただけが連れて行ってくれる景色を読者は見たいのだ。

「失敗しない子犬選び」という本を見ていて、見るたびにむかむかする犬の写真が3枚。キーッと、つまみたくなるこまっしゃくれた犬たち。それは、シー・ズーマルチーズヨークシャー・テリアの写真だ。どれも毛をマントのようにぶわーっとのばし、リボンをつけて、つーんとすましかえっている。
子犬の時の写真は毛を押しつぶされたぬいぐるみ。大きくなった時のは、むちむちぷるん、もこもこどてっのシー・ズー。(シーズーイラスト。ブフブフーと擬音)
子犬の時の写真はひねりつぶしたいほどかわいいけど、大きくなった時のは、いらいらするほど威張った感じの純白のマルチーズ。(マルチーズイラスト。「気どっててもヒゲ」)
子犬はぬれそぼってかわいい、大人はむかーっとくる黒く丸い純な瞳と口へらずな感じのヨークシャー・テリア。(ヨークシャー・テリアイラスト。「しゃれのめしてもヒゲ」)


カンチの言葉使いをよく注意するけど、実はわたしにそっくりなんだ。


川のむこう つれづれノート(14) (角川文庫)

川のむこう つれづれノート(14) (角川文庫)

人は、自分の流儀で世界を再構築する。
得意なもの、好きなこと、ずっと続けてきたものなどを足場にして、自分の言葉で世界というつみきを積み上げる。
同じ景色の中に、だれもが自分だけの景色を見ている。

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ふ。ブックオフの百円コーナーで、14巻と6巻を買ってしまった
・・・・こんなに長文かきぬいたのに。全巻手元にそろう日も、遠くない、気がする