オシボリの死


オシボリさんのごめいふくをこころよりおいのりもうしあげます。
押し花のオクヤミ電報が舞いこんできた。
差出人は、こばやしだいきち、こはる、とある。こころ当りのない名前である。
この名前が人でなく、猫であることに気づくまで少し時間を要した。だいきちは大吉、こはるは小春と書く。俳優の小林薫さんの家猫である。
オシボリが永眠した日、定例のゴルフコンペがあって相模でゴルフをしていた。
横山泰三さん、早川良雄さん、山口はるみさん、沢口敏夫さん、それに小林薫さんも一緒であった。ゴルフを終わった頃、天気は雨に変っていたが、みんなで駅前のすし屋に寄り、そのあとカラオケ酒場に席をうつし、歌えないぼくはひたすらウィスキーの水割りを飲み、その揚句今夜にもオシボリがあぶないという話をしたらしい。らしいというのは深酔いして何もおぼえていないからで、同席していた沢口さんの話によると、その場から家に電話してオシボリの死を知ったという。
帰ってみると、白いテーブルのうえに、白いオシボリが、白い段ボール箱に、白いバスタオルに包みこまれて安置されていた。白い水仙の花束がそえられ、香が炷かれていた。
そっとタオルをほぐすと、不思議なことに毛艶を失くしていた白い体毛にふんわりと優しく艶がもどり、呼吸さえしているように見えた。あのミイラのような痛々しい姿がウソのように消えていた。
聞くところによるとオシボリのような真っ白な猫は、昔から色街の女に好まれていたと云う。白猫は生まれつき色素が足りなくて早死にすると信じられていて、その薄幸への女たちの共感と憐憫が、みずからの境遇に重なり、白猫をいとおしく思った。獣医さんの話である。
あの日、ぼくはゴルフに出かけ、甥も実家に行き、家内もやむなく外出していた。そんなことで誰もオシボリを看取ってやれなかった。それでも家内は出かける前に、痩せ細った背中を何度もさすってやると、閉じきりだった細い眼を、大きく見開き、しげしげと家内の顔を見上げて、ニャーお、ニャーおと、二度、大きな声で鳴いたそうだ。あの声の出せなかったオシボリがである。それは余力をふりしぼって、きみにお別れと、御礼をいったにちがいないよと言うと、顔をくしゃくしゃにしてうなずいていた。
  十八のいのち途切れし寒の雨
この句は灘本さん主宰の句会で、コピーライターの沢口敏夫さんが、オシボリを偲んで詠んでくれた句である。季題は、「寒の雨」であった。選句のとき、ぼくは全く見逃していた。十八という数字が、猫の命数だとはゆめゆめ思わなかった。この句が天に選ばれ、帰りぎわ、その短冊を沢口さんが、オシボリにどうぞと渡してくれたとき、拘泥たる思いを噛みしめた。
だいきち、こはるからオクヤミ電報をもらい、この短冊をもらい、オシボリは果報ものだなとおもった。
ぼくが猫の絵を書き始めてから、二十年を軽くこえているが、振り返ってみてオシボリの絵が圧倒的に多い。白猫は縞猫などにくらべて描きいいということもあるが、小猫のときから鳴けなかったオシボリに、特別なおもい入れをしていたのかもしれない。